2025年8月10日、日本サッカー界は、その歴史において最も大きな星の一つを失いました。数々の伝説と不滅の記録を打ち立てた「日本史上最高のストライカー」、釜本邦茂さんが81年の偉大な生涯に幕を閉じたのです。この衝撃的なニュースは瞬く間に日本中を駆け巡り、多くの人々に深い悲しみをもたらしました。
この訃報に接し、「釜本さんの最期はどのようなものだったのだろうか?」「死因は何だったのか、病気で闘っておられたのか?」といった疑問が浮かぶのは当然のことでしょう。また、リアルタイムで彼の活躍を知らない世代の方々にとっては、「釜本邦茂さんとは、なぜこれほどまでにレジェンドとして語り継がれるのか?」その偉大さの本質を知りたいという思いが強いかもしれません。
この記事では、そのような皆様のあらゆる疑問に答えるべく、日本サッカー界の巨星、釜本邦茂さんについて、現時点で入手可能なあらゆる情報を結集し、深く、そして多角的に掘り下げていきます。単なる経歴の紹介に留まらず、その数字の裏にある物語、人間性、そして後世に与えた計り知れない影響までを、心を込めて解き明かしていきます。
本記事を最後までお読みいただくことで、以下の全ての点が、かつてないほど詳細に、そして明確にご理解いただけるはずです。
- 釜本邦茂さんの訃報に関する公式発表の詳細と、報道されている死因「肺炎」に至るまでの経緯。
- 「釜本邦茂」という一人の人間が、どこで生まれ、どのようにしてサッカーと出会い、そして伝説へと駆け上がっていったのか、その詳細な学歴と経歴の全貌。
- 公の場では多くを語られなかった、釜本さんを支え続けた奥様やお子様など、ご家族に関する公表されている情報。
- インターネット上で時に見られる国籍に関する噂について、公的な事実に基づいた揺るぎない真相。
- 「75」という日本代表最多ゴール記録やメキシコ五輪得点王という記録が、どれほど異常で偉大なものなのか、具体的な比較と分析を交えた解説。
- 現役引退後、指導者、クラブ経営者、そして政治家として、いかに多様な分野で日本のために尽力したかの詳細な軌跡。
- サッカーの王様・ペレをはじめとする世界のレジェンドたちと、どのような関係を築き、リスペクトを交わしていたのか。
- 同時代を生きた盟友から、彼に憧れた後輩たちまで、サッカー界のあらゆる層から寄せられた、心からの追悼の言葉とその背景。
釜本邦茂という人物の偉大さは、単なる過去の栄光ではありません。彼の生き様そのものが、現代の私たちに多くのことを教えてくれます。この記事が、日本サッカーの礎を築いた一人の偉大な男の人生を深く知り、その功績を未来へと語り継ぐ一助となることを願ってやみません。
1. 釜本邦茂さんが死去、日本サッカー界に走った衝撃

日本サッカーの歴史を語る上で、その名を決して外すことのできない巨星、釜本邦茂さんの訃報。それは2025年8月10日の日曜日のことでした。Jリーグや各報道機関によって一斉に伝えられたそのニュースは、まるで時が止まったかのような衝撃を多くのサッカーファン、そして関係者にもたらしました。ここではまず、その訃報に関する正確な事実関係と、サッカー界が示した迅速な反応について、詳しく見ていきます。
1-1. 逝去の日時と場所、そして公式発表
釜本邦茂さんは、2025年8月10日の午前4時4分、かねてより療養していた大阪府内の病院で、その81年の生涯に幕を閉じました。
この事実は、同日に日本サッカー協会(JFA)およびJリーグから正式に発表されました。JFAは「かねてから病気療養中でしたが、8月10日午前4時4分、大阪府内の病院で肺炎のため、逝去されました」と、死因についても明確に公表。日本サッカー界が、計り知れないほどの大きな存在を失ったことが、公式に伝えられた瞬間でした。
この発表を受け、各報道機関も速報でこのニュースを報道。新聞やテレビ、インターネットメディアは、彼の輝かしい功績を振り返る特集を次々と組み、その死を悼みました。釜本さんが単なる元サッカー選手ではなく、社会的な影響力を持つ国民的な英雄であったことが、この報道の大きさからも改めてうかがえます。
特に、釜本さんが初代監督を務めたガンバ大阪、そして現役時代の全てを捧げたヤンマーディーゼルサッカー部を前身とするセレッソ大阪は、深い悲しみを表明。訃報が流れたその日に行われたJ1リーグの試合では、試合開始前に全スタジアムで黙祷が捧げられ、選手たちは喪章を腕につけてプレーしました。クラブの垣根を越え、サッカーファミリー全体で偉大な先人の死を悼むその光景は、釜本さんがいかに多くの人々から愛され、尊敬されていたかを物語っていました。
1-2. 執り行われる葬儀とお別れの会について
Jリーグの公式発表によれば、故人の遺志やご家族の意向を尊重し、通夜および告別式は近親者のみで静かに執り行われるとのことです。そのため、葬儀に関する詳細な場所や日時の公表は控えられています。
一方で、釜本さんが日本サッカー界に残した功績のあまりの大きさ、そして彼を慕うファンや関係者の多さを考慮し、後日、改めて「お別れの会」の実施を検討していることも明らかにされています。この会は、多くの人々が釜本さんとの最後の別れを告げ、その偉大な功績を偲び、感謝を伝えるための場となることでしょう。
選手として、指導者として、そしてサッカー界の重鎮として、長きにわたり日本のサッカーを牽引し続けた釜本さん。彼を直接知る関係者だけでなく、彼のプレーに夢をもらった数多くのファンにとっても、このお別れの会は非常に重要な意味を持つ場となるはずです。詳細については、JFAや関係各所からの正式な発表が待たれます。
2. 釜本邦茂の死因は何だったのか?長期にわたる病気との闘い
突然伝えられた釜本邦茂さんの訃報。多くの人々が衝撃と共に抱いたのは、「死因は具体的に何だったのだろうか」「最近の健康状態はどうだったのか」という疑問でした。公に発表された情報と、複数の信頼できる報道を基に、釜本さんの最期と、知られざる病との闘いについて深く掘り下げます。
2-1. 公式に発表された死因は「肺炎」
日本サッカー協会(JFA)およびJリーグが公式に発表した情報によると、釜本邦茂さんの直接の死因は「肺炎」とされています。この公式見解は、全ての主要メディアで共通して報じられており、最も確かな情報と言えます。
さらに一部の報道では、この肺炎が「誤嚥(ごえん)性肺炎」であった可能性が示唆されています。誤嚥性肺炎とは、食べ物や飲み物、あるいは唾液などが誤って気管や肺に入ってしまうこと(誤嚥)が原因で引き起こされる肺炎です。特に体力が低下している場合や、高齢になると発症しやすくなる疾患として知られています。釜本さんが長期にわたって療養生活を送っていたことを考えると、この情報には一定の信憑性があると考えられますが、公式発表はあくまで「肺炎」であり、その詳細な種類については断定的な言及は避けられています。
2-2. 2023年から始まった療養と手術、そして最期
釜本さんの闘病生活は、決して短いものではなかったようです。報道を総合すると、釜本さんは2023年の9月ごろから体調を崩し、誤嚥性肺炎の疑いで大阪府内の病院に入院し、療養生活に入られたとされています。
約2年近くに及ぶこの闘病生活の間には、希望の光が見えた時期もありました。伝えられるところによると、2024年の秋には一度手術を受け、その後、容体は一時的に回復に向かったとのことです。しかし、長年の戦いで消耗した体力は、病魔の再燃を許してしまいました。
残念ながら、2025年の6月中旬ごろから再び容体が悪化。ご家族の献身的な看病と医療スタッフによる懸命な治療が続けられましたが、その甲斐なく、8月10日の未明、静かに息を引き取られました。
ピッチの上では、どんな屈強なディフェンダーにも当たり負けしない強靭な肉体を誇った釜本さん。その彼が、晩年は病との静かで、しかし過酷な戦いを強いられていたのです。ゴールという唯一の結果を求め、最後まで諦めずにボールを追い続けた現役時代の姿は、この長期にわたる闘病生活における不屈の精神と、どこか重なって見えるようです。
3. 釜本邦茂とは一体誰で何者なのか?学歴と輝かしい経歴の全記録

「釜本邦茂」という名前は、日本サッカーの歴史そのものと言っても過言ではありません。しかし、その具体的な人物像や、どれほど規格外の功績を残したのかは、世代によっては詳しく知らない方も多いでしょう。ここでは、一人のサッカー少年が「世界のカマモト」と呼ばれる伝説へと駆け上がっていった、その壮大な物語を、学歴と経歴から詳細に紐解いていきます。
3-1. 生い立ちと運命を変えたサッカーとの出会い
釜本邦茂さんは、1944年(昭和19年)4月15日、歴史と文化の街、京都府京都市右京区太秦で生を受けました。戦中という厳しい時代でしたが、天性の運動神経に恵まれた彼は、活発な少年時代を過ごします。当時の多くの少年たちがそうであったように、彼の最初の夢はプロ野球選手になることでした。小学校時代は野球とサッカーの両方に親しみ、その才能の片鱗を見せていました。
運命の転機が訪れたのは、京都市立蜂ヶ岡中学校への入学時。当初の予定通り野球部への入部を考えていた釜本少年を引き留めたのは、サッカー部の顧問の先生でした。その先生がかけた「野球は日本とアメリカが中心の世界。でもサッカーはオリンピック競技でもあるし、世界中を舞台に戦えるんだぞ」という言葉が、彼の心を強く揺さぶりました。世界への憧れを抱いた少年は、サッカーボールを追う道を選びます。この一つの選択が、後に日本サッカー界の未来を大きく左右する、まさに歴史的な瞬間となったのです。
サッカーの道に進むと、その才能は堰を切ったように開花します。類稀な得点感覚と、ゴールへの執着心から、すぐにチームのエースストライカーに。付いたあだ名は「点取りガマ」。この頃からすでに、ゴールゲッターとしての非凡な才能は周囲の注目を集めていました。
3-2. 学歴:名門・山城高校から早稲田大学での伝説
釜本さんの学歴は、そのまま日本のエリートサッカー選手の王道とも言える輝かしいものです。
年代 | 学校名 | 主な実績と特記事項 |
---|---|---|
1960年~1962年 | 京都府立山城高等学校 | ・高校1年生にしてユース代表に選出されるという異例の抜擢。 ・全国高校サッカー選手権大会でチームを準優勝に導く中心選手として活躍。 |
1963年~1966年 | 早稲田大学(第二商学部) | ・関東大学リーグにおいて4年連続得点王という前人未到かつ不滅の大記録を樹立。 ・大学チームでありながら、社会人のトップチームも参加する天皇杯全日本サッカー選手権大会で2度の優勝 (1963年度, 1966年度) を成し遂げる。 ・大学在学中の1964年に日本代表に選出され、東京オリンピックに出場。 |
山城高校時代、すでにその名は全国のサッカー関係者に知れ渡っていましたが、早稲田大学へ進学すると、その才能はまさに異次元の領域へと達します。関東大学リーグで4年間、誰にも得点王のタイトルを譲らなかったという事実は、彼の傑出度を物語っています。さらに驚くべきは、大学生チームを率いて、社会人の強豪クラブを次々と打ち破り、日本サッカー界の最高峰のタイトルである天皇杯を2度も手にしたことです。大学生チームが天皇杯を制したのは、この釜本さんを擁した1966年度の早稲田大学が最後となっており、この記録がいかに規格外であったかを証明しています。
3-3. 社会人経歴:ヤンマーディーゼルで築いた不滅の金字塔
大学サッカー界で敵なしの実績を残した釜本さんには、当然のごとく数多くの企業チームから熱心な勧誘がありました。その中から彼が選んだのは、1967年、当時まだ関西の弱小チームの一つに過ぎなかった日本サッカーリーグ(JSL)のヤンマーディーゼルサッカー部(現在のセレッソ大阪の前身)でした。
彼の加入は、チームに革命をもたらしました。釜本さんはゴールを量産するだけでなく、その勝利への執念とカリスマ性でチーム全体を牽引。ブラジル人選手のネルソン吉村(後の吉村大志郎)さんらとの連携も冴えわたり、ヤンマーを瞬く間にリーグを代表する強豪へと変貌させたのです。1984年に現役を引退するまで、釜本さんはヤンマー一筋でプレーを続け、サッカーファンなら誰もが息をのむような、数々の金字塔を打ち立てました。
- 日本サッカーリーグ(JSL)通算成績:251試合出場 / 202得点(歴代1位)
- 得点王:7回(1968, 1970, 1971, 1974, 1975, 1976, 1978年度 / 歴代1位)
- 年間最優秀選手賞(MVP):7回(歴代1位)
- 年間優秀11人賞(ベストイレブン):14回(歴代1位)
- アシスト王:3回(1973, 1975, 1979年度)
これらの記録は、単に凄いという言葉では表現しきれません。得点王とアシスト王の両方を獲得していることからも分かるように、彼は単なるゴールゲッターではなく、チームを勝利に導くためのあらゆるプレーができる、完成された選手でした。長きにわたり日本のサッカー界の頂点に君臨し続けた絶対的な存在、それが釜本邦茂さんだったのです。
4. 釜本邦茂は結婚して子供がいた?プライベートと家族への思い
ピッチの上では、鬼気迫る表情でゴールを狙う絶対的なエースとして君臨した釜本邦茂さん。しかし、その一方で彼のプライベート、特にご家族については、これまで公の場で多くが語られることはありませんでした。ここでは、公表されている情報や関係者の言葉を基に、釜本さんの家庭人としての一面に光を当ててみます。
4-1. 結婚した妻(奥さん)は釜本さんを支え続けた修子さん
釜本さんはご結婚されており、長年にわたり連れ添った奥様の名前は「修子(のぶこ)」さんであることが、過去のテレビ番組出演などの情報から確認されています。
日本代表のエース、そして国内リーグのスター選手として、常に大きなプレッシャーと戦い続けた釜本さん。その輝かしいキャリアの陰には、間違いなく修子さんの献身的なサポートがありました。厳しい勝負の世界に身を置き、時には怪我や病気に苦しむ夫を、家庭で温かく支え続けた存在でした。特に、日本サッカー協会の川淵三郎相談役が追悼コメントの中で「長い療養生活を深い愛情をもって支えてこられた奥さまに心からお悔やみと感謝を申し上げます」と言及していることからも、近年の闘病生活において、修子さんの存在がいかに大きかったかがうかがえます。釜本さんがピッチ内外で偉大な功績を残すことができた背景には、最も身近なパートナーである修子さんの理解と支えが不可欠だったのです。
4-2. 子供(息子・娘)に関する情報はなぜ少ないのか?
一方で、釜本さんにお子さん(息子さんや娘さん)がいらっしゃるのかどうかについては、公にされている信頼できる情報は非常に限定的です。今回の訃報に際しても、JFAや政府機関、大手報道機関の公式な発表や記事の中に、お子さんに関する具体的な記述は見当たりませんでした。
これは、釜本さんご自身が、家族のプライバシーを非常に大切にされていたことの表れだと考えられます。国民的なスターである「公人・釜本邦茂」としての顔と、家庭を守る「私人・釜本邦茂」としての顔を、意識的に分けていたのかもしれません。家族をメディアの喧騒から守り、静かで平穏な生活を送らせたいという、父親としての深い愛情があったのではないでしょうか。
そのため、インターネット上に見られる憶測や不確かな情報を鵜呑みにするのではなく、故人の遺志を尊重し、ご家族については静かに見守ることが、私たちにできる最大限の敬意の表し方と言えるでしょう。
5. 釜本邦茂の国籍はどこ?在日韓国人というネット上の噂を徹底検証
偉大な功績を残した著名人に対して、その出自や国籍に関する様々な噂が流布されることは、残念ながら珍しいことではありません。釜本邦茂さんについても、インターネット上の一部のコミュニティなどで「在日韓国人なのではないか」といった内容の書き込みが見受けられます。しかし、この噂は果たして事実なのでしょうか。ここでは、客観的かつ公的な事実に基づいて、その真相を徹底的に検証します。
5-1. 結論:釜本邦茂の国籍は「日本」で確定
まず結論から申し上げます。釜本邦茂さんの国籍は日本です。これは、単なる推測ではなく、複数の公的な事実によって裏付けられた、疑いの余地のない確定情報です。
日本代表として長年活躍し、日本のために戦ってきたという事実はもちろんですが、それ以上に決定的で、法的な根拠を持つ事実が存在します。それは、釜本さんが日本の立法府の一員、すなわち国会議員を務めていたという経歴です。
5-2. 国籍の動かぬ証拠は「参議院議員」の経歴
釜本邦茂さんは、1995年7月23日に行われた第17回参議院議員通常選挙において、自由民主党の比例代表候補として立候補し、見事当選を果たしています。そして、2001年7月22日までの6年間、参議院議員として国の立法に携わりました。
日本の公職選挙法では、国会議員(衆議院議員および参議院議員)に立候補できる資格(被選挙権)は、「日本国民」にしか認められていません。これは法律で明確に定められた要件であり、外国籍の人物が日本の国会議員になることは制度上、絶対に不可能です。
したがって、釜本さんが参議院議員に当選し、その任期を務め上げたという事実は、彼が日本国籍を有していたことの動かぬ証拠となります。「在日韓国人である」という噂は、この公的な事実と完全に矛盾しており、根拠のないデマ情報であると断定できます。釜本さんは、生まれも育ちも、そして国籍も日本の、正真正銘の日本人アスリートであり、政治家でした。
6. 釜本邦茂の「凄さ」の正体とは?若い頃の伝説とレジェンドたる理由
釜本邦茂さんが「レジェンド」「日本史上最高のストライカー」と、半世紀以上の時を経てもなお、畏敬の念を込めて語られるのはなぜでしょうか。その理由は、ただ単にゴールを多く決めたから、というだけではありません。彼の「凄さ」は、誰も更新できない圧倒的な「記録」と、人々の脳裏に鮮烈に焼き付いて離れない「記憶」の両輪によって成り立っています。その本質に、具体的なエピソードと共に迫ります。
6-1. 【記録の凄さ①】日本代表75ゴールという不滅の金字塔
釜本さんの偉大さを最も象徴する数字、それが日本代表として刻んだゴール数です。
国際Aマッチ通算:76試合出場 / 75得点
この「75得点」という記録は、今もなお男子サッカー日本代表の歴代最多得点記録として輝き続けています。現代サッカーにおいて、この記録に近づく選手すら現れていないという事実が、その異常性を物語っています。単純計算で、1試合あたりの得点率は「0.99」。これは、代表戦に出場すれば、ほぼ必ず1点は決めていたという、信じがたいほどの決定力です。ワールドカップで得点王に輝くような世界のトップストライカーたちと比較しても、これほどの得点率は稀有であり、釜本さんがいかに傑出したゴールゲッターであったかがわかります。
6-2. 【記録の凄さ②】世界を驚かせた1968年メキシコ五輪の衝撃

釜本さんの名が日本の枠を飛び越え、「世界のカマモト」として認知される決定的なきっかけとなったのが、1968年のメキシコオリンピックでした。当時の日本は、まだ世界のサッカーシーンではアジアの強豪という位置づけに過ぎませんでした。その日本を、釜本さんはエースとして牽引し、歴史的な快挙へと導きます。
- 大会通算7得点を挙げ、並みいる世界の強豪を抑えて得点王に輝く
- 開催国メキシコとの3位決定戦で2ゴールを挙げ、日本に史上初の銅メダルをもたらす
初戦のナイジェリア戦でいきなりハットトリックを達成して世界に衝撃を与えると、その後もコンスタントにゴールを奪取。そして迎えた3位決定戦、大観衆が地元メキシコを後押しする完全アウェーの雰囲気の中、釜本さんは冷静に2つのゴールをネットに突き刺しました。アジアのサッカーチームがオリンピックでメダルを獲得するという、まさに歴史を塗り替えた瞬間。その中心には、常に背番号9、釜本邦茂がいました。この活躍は、日本のサッカー選手も世界で通用することを証明し、後の世代に大きな夢と希望を与えたのです。
6-3. 【記憶の凄さ①】代名詞「右45度」から放たれる必殺のガマ・キック
釜本さんのプレーは、記録だけでなく、観る者の記憶に深く刻まれる芸術性をもっていました。その象徴が、ペナルティエリアの「右45度」の角度から放たれる、彼の代名詞ともいえる右足のシュートでした。相手ディフェンダーを背負いながら巧みに反転し、そこから放たれるシュートは、GKが一歩も動けないほどの凄まじい威力と、ゴール隅を正確に射抜く精度を兼ね備えていました。ファンやメディアは、この必殺のシュートを親しみを込めて「ガマ・キック」と呼び、釜本さんがこの得意なゾーンでボールを持った瞬間に、スタジアム中の誰もがゴールの予感に胸を躍らせたのです。
しかし、この芸術的なシュートも、単なる天賦の才だけで生まれたものではありませんでした。当時、世界最高のストライカーの一人であったポルトガルの英雄、エウゼビオのプレーを何度もフィルムで研究し、「どうすればより速く、より強くシュートを打てるのか」を徹底的に分析した末に編み出した、努力の結晶だったのです。
6-4. 【記憶の凄さ②】努力と探究心が作り上げた強靭な肉体と技術
公称179cm、実際には181cmあったと言われる恵まれた体格。しかし、釜本さんはそのフィジカルに甘んじることはありませんでした。彼のプレーの根底には、常人には真似のできないほどの凄まじい練習量と、絶え間ない探究心がありました。
特に有名なのが、メキシコ五輪で絶妙なコンビネーションを見せた左ウイングの名手・杉山隆一さんとのエピソードです。代表合宿では、全体練習が終わった後もグラウンドに残り、杉山さんが上げるセンタリングに合わせて、来る日も来る日もシュート練習を繰り返しました。その数は毎日100本以上にも及んだといいます。時には「もっと俺が合わせやすいボールを上げろ!」「いや、お前がもっと良いポジションに入れ!」と激しく意見をぶつけ合いながら、二人は互いのプレーをミリ単位で研ぎ澄ませ、誰にも止められないホットラインを完成させました。
また、1968年のメキシコ五輪直前には、当時の西ドイツへ3ヶ月間の短期留学を敢行。後の西ドイツ代表監督ユップ・デアヴァル氏の指導のもと、プロフェッショナルな環境でフィジカルと技術を徹底的に磨き上げました。この経験が、元々の得点能力に、世界の屈強なDFと渡り合うための強さと巧さを加え、「世界のカマモト」を完成させる最後のピースとなったのです。天才は、誰よりも努力家でした。
7. 釜本邦茂の引退後の多様な活躍、指導者から国会議員まで
1984年、数々の伝説を残してスパイクを置いた釜本邦茂さんですが、そのサッカーへの情熱と社会への貢献意欲が衰えることはありませんでした。ピッチを離れた後も、指導者、サッカー界の要職、そして政治家として、その活動は多岐にわたりました。ここでは、現役引退後の彼の力強い歩みを詳しく追っていきます。
7-1. 指導者としての挑戦と苦悩:ガンバ大阪初代監督
現役時代晩年の1978年から、所属するヤンマーで選手兼任監督を務めていた釜本さんは、引退後、本格的に指導者の道を歩みます。そして、日本サッカー界がプロ化へと大きく舵を切る歴史的な転換期に、その中心人物の一人として白羽の矢が立ちました。
1991年、Jリーグ参加を目指していた松下電器産業サッカー部の監督に就任。そして1993年、華々しくJリーグが開幕すると、クラブ名を変えたガンバ大阪の初代監督として、満員のスタジアムで指揮を執りました。日本サッカーの象徴的存在である釜本さんが監督としてベンチにいる姿は、Jリーグの黎明期を大いに盛り上げ、特に関西におけるサッカー文化の礎を築く上で非常に大きな意味を持ちました。
しかし、指導者としての道は決して平坦ではありませんでした。チームの成績は伸び悩み、プロ化の過渡期における選手の意識改革にも苦心したと言われています。特に、当時のエースストライカーであった永島昭浩さん(現・解説者)ら、古参選手との確執が報じられるなど、チームマネジメントに苦労する側面もありました。1994年シーズン終了後、事実上の解任という形で監督を退任。指導者としては、現役時代のような輝かしい成功を収めることはできませんでしたが、Jリーグ創設期の困難な時代にクラブを率いたその功績は、ガンバ大阪の歴史において決して消えることのないものです。
7-2. 日本サッカー界の中枢へ:JFA副会長としての貢献
指導の現場を離れた後、釜本さんはその豊富な経験と知識を、日本サッカー界全体の発展のために活かす道を選びます。1998年、日本サッカー協会(JFA)の副会長という要職に就任。日本サッカー界の運営と方針決定の中枢を担うことになりました。
特に重要な役割を果たしたのが、2002年に開催された日韓共催FIFAワールドカップです。大会の組織委員会理事や、日本代表の強化を司る強化推進本部長といった重責を担い、大会の成功と、日本代表の史上初となる決勝トーナメント進出に大きく貢献しました。時には、当時のフィリップ・トルシエ監督と強化方針を巡って意見が対立することも報じられましたが、それは全て「日本を強くしたい」という純粋な情熱から来るものでした。その功績が認められ、2005年には、JFAが創設した第1回日本サッカー殿堂に、他のレジェンドたちと共に真っ先に掲額されています。
7-3. 驚きの政界転身:参議院議員としての6年間
釜本さんの活動は、サッカー界の枠に収まりませんでした。1995年、多くの人々を驚かせたのが、政界への挑戦でした。第17回参議院議員通常選挙に、当時の与党であった自由民主党の公認候補として比例区から立候補。その抜群の知名度を武器に見事初当選を果たし、国政の舞台へと足を踏み入れました。
2001年までの1期6年間、参議院議員として活動。厚生労働委員会などに所属し、自身の経験を活かしてスポーツ振興策の推進や、国民の健康問題などに取り組みました。2000年には、第2次森内閣で労働政務次官に任命されるなど、政府内でも重要な役割を担いました。サッカー選手から国会議員へという異色のキャリアは、彼の社会貢献への強い意欲を示すものでした。
7-4. 生涯を捧げたサッカーの普及と後進の育成
政治家としての任期を終えた後も、釜本さんの人生の中心には常にサッカーがありました。テレビ中継では、ストライカーならではの鋭い視点からの解説が人気を博しました。それと同時に、未来の日本サッカーを担う子どもたちの育成にも、生涯を通じて情熱を注ぎ続けたのです。
自身で「釜本FC」というジュニアチームを立ち上げ、多くの子どもたちにサッカーの楽しさと厳しさを教えました。この釜本FCは、後にガンバ大阪の育成組織へと発展的に受け継がれ、元日本代表FWの大黒将志選手など、多くのプロ選手を輩出する礎となっています。全国各地で「釜本サッカー教室」を開催し、目を輝かせる子どもたちに直接指導する姿は、多くの場所で見られました。日本サッカーの未来のために、種を蒔き続けること。それが、レジェンドが自らに課した最後の、そして最も大切な仕事だったのかもしれません。
8. 釜本邦茂とペレ、国境を越えた王様との特別な関係性

釜本邦茂さんの国際的な評価と、その人間的な魅力を語る上で、避けて通れない人物がいます。それは、「サッカーの王様」として世界中のサッカーファンから敬愛される、ブラジルの伝説的スーパースター、ペレさんです。二人の偉大なストライカーの間には、国境や言葉の壁を越えた、深い尊敬と特別な絆がありました。
8-1. 日本サッカー史に残る名場面:引退試合に王様ペレが来日
釜本さんとペレさんの関係を最も象徴する、そして日本のサッカー史における伝説的な名場面として語り継がれているのが、1984年8月25日に東京・国立霞ヶ丘競技場で行われた釜本邦茂さんの引退試合です。
この、日本のストライカーの引退を記念する試合に、信じられないことに、ペレさん本人がゲストプレーヤーとして友情出演するために来日し、釜本さんと共に同じピッチに立ったのです。当時すでに現役を退いていたとはいえ、世界の頂点に君臨した「王様」が、一人の日本人選手の引退試合のためだけにわざわざ地球の裏側から駆けつけ、プレーを披露するなど、まさに前代未聞の出来事でした。これは、ペレさんが釜本さんの選手としての実力と、日本サッカー界に残した偉大な功績に対し、心からの敬意を抱いていたことの何よりの証明です。
当日の国立競技場は、この歴史的な瞬間を見届けようと6万2千人もの大観衆で埋め尽くされました。試合前、二人のレジェンドが固い握手を交わし、笑顔で抱き合う姿は、多くのファンの目に焼き付いています。この出来事は、釜本さんが単なる日本のスターではなく、世界に認められたフットボーラーであったことを、雄弁に物語っています。
8-2. 互いに送り続けたストライカー同士のリスペクト
釜本さん自身、後年になってもこの引退試合のことを「私のサッカー人生で最も忘れられない、一番の思い出です」と、感慨深げに語っていました。そして、2022年12月にペレさんがこの世を去った際には、日本のメディアを通じていち早く追悼のコメントを発表。「引退試合に来てくれた恩は一生忘れない。天国でまた一緒にサッカーがしたい」と、王様との別れを心から惜しんでいます。
ペレさんの方もまた、釜本さんの得点能力を高く評価していたと言われています。国籍もプレースタイルも異なりますが、ゴールという究極の結果を追い求め、国民の期待を一身に背負って戦い続けた二人の間には、同じ「ストライカー」として、言葉にしなくとも通じ合える、深い共感とリスペクトが存在していたのです。釜本邦茂という選手の価値は、サッカーの王様が認めたという事実によって、より一層輝きを増していると言えるでしょう。
9. 釜本邦茂の訃報に寄せて。サッカー業界から届いた追悼の言葉

釜本邦茂さんの突然の訃報は、日本サッカー界全体を深い悲しみに包みました。同時代を戦った盟友から、彼に憧れてサッカー選手を目指した後輩たち、そして彼の薫陶を受けた指導者や選手まで、あらゆる世代のサッカー関係者から、偉大な先人への追悼と感謝の言葉が数多く寄せられています。ここでは、その一部を紹介し、釜本さんがいかに多くの人々に影響を与え、慕われていたかを見ていきます。
9-1. JFA・Jリーグ、日本サッカー界のトップからの言葉
- 宮本恒靖 JFA会長:「不世出のストライカーでした。同時に私のキャリアにおいて多くの影響を与えてくださった方でもあります。(G大阪ユース時代に)釜本FC出身の選手たちが持つ『ボールを止める・蹴る』技術の高さに驚かされました。生涯を通じて日本サッカーの普及、振興に努められている釜本さんのお姿に多くのことを学びました。」
- 川淵三郎 JFA相談役:「東京オリンピックの前年、高校生だった釜本選手と初めてプレーをして、日本人離れしたそのスケールの大きさに驚かされた。〝釜本2世〟とうたわれた選手は何人も出てきましたが、半世紀たった今も彼に近づいた選手はまだ現れていません。〝不世出の選手〟という言葉がぴったりな釜本さんでした。」
- 野々村芳和 Jリーグチェアマン:「日本サッカーがまだプロ化する前、これから国際競争力をつけていこうとする草創期において、比類なき活躍によってその発展を牽引し、数々の歴史的記録を樹立した偉大な先駆者です。選手や指導者を引退されてからも放ち続けた強烈な存在感は、年代を超えサッカーファミリーの胸にいつまでも『不世出のレジェンド』として深く刻まれています。」
9-2. ゆかりのクラブ、ガンバ大阪とセレッソ大阪からの追悼
- ガンバ大阪:「クラブ創設期に監督としてガンバ大阪の礎を築かれたご功績に深く感謝申し上げるとともに、心より哀悼の意を表します。水谷尚人社長は『“次の釜本”はつくれないと思うけど、釜本さんに近づける選手を育てるのは、ガンバアカデミーからトップチームの仕事』と決意を述べました。」
- セレッソ大阪 森島寛晃会長:「日本サッカー界を長年牽引されてきた偉大な存在であり、私たちセレッソ大阪の前身であるヤンマーディーゼルサッカー部のOBとしても、クラブの姿勢や文化を築いてこられた大先輩です。卓越した技術と勝負強さで、ボールが渡れば必ずゴールを決めるという圧倒的な存在感を持ち、日本サッカーの歴史に大きな足跡を残されました。」
9-3. 森保監督、本田圭佑ら後輩たちからの尊敬と感謝
- 森保一 日本代表監督:「日本のレジェンド中のレジェンド。釜本さんがメキシコオリンピックで銅メダルを獲ったチームの中心としてプレーをされていて、そこを目標にオリンピック代表は活動をしていましたし、そういう世界でも勝っていけるということを我々に示してくださった偉大な方。本当に寂しい気持ちでいます。」
- 本田圭佑さん:「僕が一方的に、『釜本サッカースクール』に参加して、周りの選手は釜本さんに気づいていない中、僕だけすごく興奮していたのを覚えています。僕にとっては、サッカーを始めたスタート時に、ものすごく影響を受けたひとりです。代表で記録を抜く選手が出てくる姿は、今のところ想像出来ないですし、すさまじい記録です。」
- 柱谷哲二さん:「子供の頃からの憧れ。とても残念。高校卒業してすぐに憧れの釜本さんと2トップで試合をしたのを思い出す。心よりご冥福をお祈りいたします。」
- 戸塚哲也さん:「(現役時代)本当に岩のように動かないイメージ。何回かコンタクトがあったんですけど、全然動かない。ビクともしない。本当にすごいなっていうのが。まだ僕は18歳でしたけど、すごかったですね。」
これらの言葉の数々は、釜本邦茂さんが単なる記録保持者ではなく、そのプレーと生き様で、多くのサッカー人の心に深く、そして永遠に刻まれる、真の「レジェンド」であったことを物語っています。
10. まとめ:釜本邦茂さんの死因から功績まで、日本サッカーの巨星を偲んで
本記事では、2025年8月10日に81歳でその偉大な生涯に幕を下ろした、日本サッカー界の伝説的ストライカー、釜本邦茂さんについて、その死因から輝かしい経歴、人間性、そして後世に与え続けた計り知れない影響まで、あらゆる角度から徹底的に解説してまいりました。
最後にこの記事の核心となる要点を改めて整理し、釜本さんが私たちに残してくれたものとは何だったのかを振り返りたいと思います。
- 死去と死因について
2025年8月10日、肺炎のため大阪府内の病院で逝去されました。享年81。報道によれば、2023年頃から約2年近くにわたり、病との闘いを続けておられたとのことです。 - 釜本邦茂とは誰で何者か
1944年、京都府生まれ。山城高校、早稲田大学を経て、ヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)で活躍した元サッカー選手です。日本サッカーの黎明期からプロ化への過渡期、そして現代へと続く道のりを、常に中心人物として牽引し続けた、まさに「日本サッカーの父」とも呼べる存在でした。 - その凄さと不滅の功績
日本代表として歴代最多の75得点、そして1968年メキシコオリンピックでの得点王獲得と銅メダルという世界的快挙。国内リーグにおいても得点王7回、MVP7回など、数々の前人未到の記録を打ち立てた「日本史上最高のストライカー」です。その記録は、今なお誰にも破られていません。 - 家族と国籍の真実
長年連れ添った妻は修子さん。プライバシーを尊重し、お子さんに関する公的な情報はほとんどありません。また、国籍については、参議院議員を務めた事実からも明らかな通り、日本国籍です。 - 引退後の多様なキャリア
現役引退後は、ガンバ大阪の初代監督を務め、Jリーグの礎を築きました。その後、日本サッカー協会の副会長としてサッカー界の運営に携わる一方、参議院議員として国政にも挑戦。生涯を通じて、サッカーと社会の発展にその身を捧げました。 - ペレとの特別な関係
引退試合に「サッカーの王様」ペレが駆けつけるなど、その実力は世界的に認められており、国境を越えたリスペクトで結ばれていました。 - サッカー界からの尽きない追悼
JFAのトップから、森保監督や本田圭佑さんら後輩たちまで、あらゆる世代のサッカー関係者がその死を悼み、偉大な功績と人柄を称賛しています。
釜本邦茂さんが残したものは、色あせることのない数々の記録だけではありません。ゴールへの執念、勝利への渇望、そして誰にも負けない努力を続ける不屈の精神。彼のプレーと生き様そのものが、日本サッカーのDNAとして、これからの世代にも確実に受け継がれていくことでしょう。
日本サッカーの未来を切り拓いた偉大なストライカーの旅立ちに、最大の敬意と感謝を表し、心よりご冥福をお祈りいたします。
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