2025年8月、大相撲界に大きな悲しみのニュースが駆け巡りました。1991年の名古屋場所で劇的な平幕優勝を果たした元関脇・琴富士こと小林孝也(こばやし たかや)さんが、60年の生涯に幕を閉じたのです。そのニュースは、多くの相撲ファンにとって、一つの時代の終わりを感じさせる出来事でした。
現役時代の輝かしい栄光、そして引退後のタレント活動、飲食店経営の挫折、ギャンブル依存、偽装結婚による逮捕、壮絶な極貧生活、そして長きにわたる闘病…。彼の人生航路は、穏やかな海を進むものではなく、まさに荒波の中を突き進むかのようでした。「波瀾万丈」という言葉でさえ、彼の人生のすべてを表現するには足りないかもしれません。
多くのファンが彼の訃報に驚き、その死因や壮絶な闘病生活、そして彼を支え続けた知られざる家族の物語に、深い関心を寄せています。なぜ彼は栄光を掴み、そしてなぜ転落し、どのようにして再び立ち上がろうとしたのでしょうか。
この記事では、元関脇・琴富士さんの生涯を、現時点で入手可能な報道や情報を基に多角的に掘り下げ、読者の皆様が抱くであろうあらゆる疑問に、徹底的に答えていきます。
- 琴富士さんの訃報はどのように伝えられたのか?そして、報道されている死因の真相にどこまで迫れるのか。
- 彼の命を蝕み続けた「頭の病気」である脳梗塞や、その他の病状は、どれほど深刻なものだったのか、その闘いの全貌。
- 今改めて問う「琴富士とは誰で何者だったのか?」その輝かしい経歴と、記録の裏にある知られざる人物像。
- 引退後の転落と復活の全記録。なぜ彼は逮捕されるに至ったのか、その事件の深層にあるものとは。
- 結婚と離婚、そして運命的な再婚。最期を看取った妻はどんな人物で、子供の存在はどうなっているのか。
- 兄弟子・貴闘力さんや、ライバル・小錦さんとの、一言では語れない複雑な関係性の実態。
本記事を最後までお読みいただくことで、単なる元力士の生涯を知るだけでなく、一人の人間として、時代に翻弄されながらも懸命に生きた琴富士・小林孝也さんの栄光と苦悩、そして彼が我々に遺したものは何だったのかについて、深く、そして鮮明にご理解いただけることでしょう。
1. 琴富士(小林孝也)が死去したという、あまりにも早すぎる悲報の真相

まずは、今回の悲しいニュースがどのように世間に伝わったのか、その詳細と背景について、時系列を追いながら多角的に検証していきましょう。
1-1. 2025年8月、衝撃が走った訃報の概要
元関脇・琴富士こと小林孝也さんがこの世を去ったという衝撃的な一報が流れたのは、残暑が厳しい2025年8月10日のことでした。共同通信が速報として配信し、それを皮切りに日刊スポーツなどの大手メディアが一斉に後を追って報じたことで、その事実は瞬く間に日本中に知れ渡りました。
報道で伝えられた内容は、彼がその2日前の2025年8月8日午前7時43分に、60歳という若さで息を引き取ったというものでした。力士としての輝かしい功績はもちろんのこと、引退後もタレント活動やYouTubeなどでメディアに登場し、その近況が断続的に伝えられていただけに、このあまりにも早すぎる死は、多くの人々に大きな衝撃と深い悲しみをもたらしたのです。
力士のセカンドキャリアの難しさや、現役時代の過酷な生活が引退後の健康に与える影響など、様々な問題を改めて考えさせるきっかけともなりました。
1-2. 各メディアの報道状況と情報の信頼性
今回の訃報は、複数の信頼できる情報源から発信されています。最初に報じた共同通信は「関係者の話」として、事実関係を慎重に伝えました。これは、ご遺族の深い悲しみに配慮し、公式発表前の段階で確度の高い情報を伝えるための報道機関としての基本的な姿勢と言えます。
その後、日刊スポーツが、より一歩踏み込んだ詳細な記事を配信します。この記事は、琴富士さんの最期を看取った妻である篠原弘美さんへの取材に基づいて構成されており、亡くなった正確な日時や、近年の壮絶な闘病生活の様子、そして弘美さんの心境などが具体的に記されていました。この報道により、ニュースの信憑性は決定的なものとなります。
さらに、小林さん自身のものとされるX(旧Twitter)アカウントを通じても、妻である弘美さんからファンや関係者に向けて訃報が伝えられたとされています。このように、複数のメディアと遺族本人からの発信が組み合わさる形で、小林孝也さんの死去は紛れもない事実として社会に認知されました。
1-3. 静かに行われた近親者のみでの葬儀・告別式
各メディアの報道によれば、通夜は小林さんが亡くなった8月8日の当日に、そして葬儀・告別式は翌9日に、ごく限られた近しい親族のみで静かに執り行われたとのことです。
現役時代の輝かしい功績や、引退後の知名度を考えれば、盛大な葬儀が営まれても不思議ではありません。しかし、近親者のみで故人を送るという選択は、長年の闘病生活を支え続けたご家族の「静かに見送りたい」という強い意志の表れであったのかもしれません。また、コロナ禍を経て一般化した家族葬という形式が、そうしたご遺族の意向を後押しした側面もあるでしょう。
今後、相撲協会や有志によるお別れの会などが後日開催される可能性も考えられます。多くのファンや角界関係者が、改めて故人を偲び、その功績を称える機会を心待ちにしていることは想像に難くありません。
2. 琴富士(小林孝也)の死因は何だったのか?報道から探る真相

多くの人々が最も心を痛め、そして知りたいと願っているのが、琴富士さんの直接の死因でしょう。報道内容を慎重に分析し、その真相にどこまで迫れるのかを検証します。
2-1. 日刊スポーツが報じた「脳梗塞」という直接的な要因
複数のメディアが訃報を伝える中、日刊スポーツは比較的踏み込んだ表現で「脳梗塞で死去したことが9日、分かった」と報じました。この記事は、妻の弘美さんへの取材に基づいていることから、情報の確度は非常に高いと考えられます。この報道が、多くの人々にとって「琴富士さんの死因は脳梗塞であった」という認識を形成する上で大きな役割を果たしました。
実際に、後述するように琴富士さんは2021年に重篤な脳梗塞を発症して以降、約4年間にわたって極めて困難な闘病生活を送っていました。そのため、最終的に彼の命を奪った直接的な原因が脳梗塞であったという見方には、十分な説得力があります。長年の闘病の末、脳の機能が回復不可能なレベルにまで低下した結果と見るのが自然な解釈かもしれません。
2-2. 複合的な要因を示唆する「脳梗塞などで闘病」という表現の分析
一方で、最初の速報を伝えた共同通信をはじめとする他の多くのメディアは、より慎重な言葉選びをしています。具体的には、「近年は脳梗塞などで闘病していた」という表現を用い、脳梗塞が直接的な死因であると断定することを避けているのです。
これは、報道機関として極めて的確な判断と言えます。なぜなら、ご遺族や医療機関からの公式な死亡診断書に基づく発表ではない段階で、単一の病名を死因として断定することにはリスクが伴うからです。「など」という言葉には、脳梗塞以外にも、彼が長年抱えていた糖尿病、心臓病、腎臓病といった複数の疾患が複合的に作用し、最終的に死に至ったというニュアンスが含まれています。
人間の死は、多くの場合、単一の原因ではなく、複数の要因が絡み合って引き起こされます。特に琴富士さんのように多くの持病を抱えていたケースでは、脳梗塞が引き金となり、多臓器不全のような状態に陥った可能性も否定できません。この表現は、そうした医学的な複雑さを踏まえた、正確性を期すためのものだと考えられます。
2-3. 死因に関する公式発表はなく憶測は避けるべき
現時点での結論として、2025年8月10日現在、ご遺族や関係機関からの公式な死因の発表は行われていません。
したがって、メディアの報道や闘病の経緯から推測することは可能であっても、それを確定事項として語ることはできません。日刊スポーツが報じた「脳梗塞」が最も確度の高い情報である可能性は高いものの、それが医学的な死因の全てであったかどうかは、現段階では不明です。
我々にできることは、これ以上の憶測を慎み、彼が長きにわたる病との闘いの末に安らかな眠りについたという事実を受け止め、心から故人のご冥福を祈ることだけです。
3. 琴富士(小林孝也)を襲った頭の病気、その壮絶な脳梗塞との闘いの全貌
琴富士さんの人生の最終章を決定づけることになった「頭の病気」、すなわち脳梗塞。その発症から続く闘病生活は、私たちの想像を絶するほど過酷なものでした。その軌跡を、ドキュメンタリーのように詳細に追っていきます。
3-1. 2021年2月、人生を暗転させた脳梗塞の突然の発症
琴富士さんの運命の歯車が大きく、そして残酷に狂い始めたのは2021年2月のことでした。その前月、1月の検査で心臓に深刻な問題(虚血性心疾患)が見つかり、2月16日に心臓の血管を迂回させるバイパス手術を予定していました。人生を立て直し、新たな一歩を踏み出そうとしていた矢先のことです。
しかし、その手術をわずか8日後に控えた2月8日、彼は突如として「一過性脳虚血発作」を起こし、失神して救急搬送されるという緊急事態に見舞われます。一過性脳虚血発作とは、一時的に脳の血管が詰まるもののすぐに再開通する状態で、本格的な脳梗塞の「前触れ」や「警告」とされています。この時点で、彼の脳は極めて危険な状態にあったのです。
そして、その最悪の懸念は現実のものとなりました。心臓の8時間に及ぶ大手術はなんとか成功したものの、手術後の2月18日になっても、彼は全身麻酔から一向に覚める気配がありませんでした。不審に思った医療チームが緊急で脳の精密検査を行った結果、脳の広範囲に重篤な梗塞が見つかったのです。心臓という大きな爆弾を処理している間に、脳というもう一つの爆弾が爆発してしまった、そんな状況でした。
3-2. 九死に一生を得た「減圧開頭術」という命懸けの大手術
脳梗塞を発症すると、ダメージを受けた脳細胞がむくみ(脳浮腫)、密閉された頭蓋骨の内部の圧力(脳圧)が急激に上昇します。この脳圧の上昇は、健康な脳組織まで圧迫し、生命そのものを脅かす極めて危険な状態を引き起こします。
この危機的状況を脱するため、琴富士さんは同年2月21日、「減圧開頭術」という、文字通り命を懸けた大手術を受けることになりました。これは、頭蓋骨の一部を物理的に取り外して、脳の逃げ場を作ることで脳圧を下げ、脳へのダメージを最小限に食い止めるという最終手段とも言える手術です。この迅速かつ的確な判断と手術によって、琴富士さんはかろうじて九死に一生を得ることができました。
当時のマネージャーの証言によれば、取り外された頭蓋骨は左目の上のあたりで、大きさは7〜8センチ四方にも及んだといいます。頭蓋骨がなくなった部分は、皮膚の下が直接脳になるため、外見的にも大きくへこんだ状態だったそうです。その痛々しい姿は、彼がどれほど過酷な手術を乗り越えたかを物語っています。
3-3. 残された深刻な後遺症「会話困難」と「右半身麻痺」という現実
命は取り留めたものの、広範囲に及んだ脳梗塞は、琴富士さんの身体にあまりにも重い後遺症を残しました。脳の言語を司る部分が深刻なダメージを受け、自らの意思で言葉を発することが極めて困難になったのです。意識ははっきりとしており、家族の呼びかけに反応して表情を変えたり、動かせる左手で意思を伝えたりすることはできたものの、かつてのようにユーモアたっぷりに話すことは二度とできなくなりました。
さらに、運動を司る神経も損傷し、右半身が完全に麻痺。191cmの巨体を誇った元力士は、自力で起き上がることも、歩くこともできず、ベッドの上での生活を余儀なくされたのです。この瞬間から、彼の長く、そして壮絶な在宅療養生活が始まりました。それは、彼本人にとってはもちろん、支える家族にとっても、終わりが見えない闘いの始まりでもありました。
4. 琴富士(小林孝也)の体を蝕んだ数々の病気、その深刻な実態
琴富士さんの体を苦しめていたのは、脳梗塞だけではありませんでした。彼の身体は、長年の不摂生と過酷な現役生活の代償として、まさに「病気のデパート」と呼べるほど多くの疾患に蝕まれていたのです。
4-1. 「病気の巣」と化した現役時代からの生活習慣病
力士という職業は、超人的な強さを得るために、常人離れした食生活と体重管理を強いられます。その結果、多くの力士が引退後に生活習慣病に苦しむことは、以前から指摘されてきました。琴富士さんもその例外ではなく、現役時代から多くの病気の芽を抱えていました。
- 糖尿病:彼の健康問題の根幹にあったのが糖尿病です。過剰なカロリー摂取は血糖値を常に高い状態にし、血管や神経を徐々に破壊していきます。これが、後述する足指の壊疽や腎臓病、心臓病、そして脳梗塞といったあらゆる合併症の引き金となりました。
- 高血圧:常に高い血圧は、血管に大きな負担をかけ、動脈硬化を促進します。硬く、脆くなった血管は、脳や心臓で詰まったり破れたりするリスクを飛躍的に高めます。
- 痛風:プリン体を多く含む食事などが原因で、血中の尿酸値が高くなり、関節に激しい痛みを引き起こす病気です。これもまた、力士に多い職業病の一つとされています。
- 慢性腎臓病:糖尿病や高血圧によって腎臓の細かい血管がダメージを受け、機能が低下していく病気です。引退後の彼はこの病気も抱えており、進行すれば人工透析が必要になる危険な状態でした。
引退後、これらの病気の治療を怠ってしまったことを、彼は後に自身のYouTubeチャンネルで「病院が嫌いで放置していた」と、深い後悔の念とともに語っています。この「放置」が、後の悲劇につながる大きな要因となったことは否めません。
4-2. 糖尿病が招いた足指の壊疽と切除という耐え難い現実
長年にわたる重度の糖尿病は、彼の体に非情な現実を突きつけました。糖尿病の三大合併症の一つである神経障害と血流障害が進行し、足の先の感覚がなくなると同時に、血液が十分に行き渡らなくなります。その結果、組織が酸素不足や栄養不足に陥って死んでしまう「壊疽(えそ)」を発症してしまったのです。
一度壊疽を起こした組織は元に戻ることはなく、感染症を防ぐために切断するしかありません。琴富士さんも、右足の親指を壊疽のために切除するという、辛い手術を受けざるを得ませんでした。土俵を力強く踏みしめ、191cmの巨体を支え続けた力士の足が、病によってその一部を失う。その肉体的な痛み以上に、精神的な絶望感は計り知れないものがあったでしょう。
4-3. 脳梗塞の引き金にもなった心臓の危険な状態
2021年の悲劇の直接的な発端となったのが、心臓を養う血管の病気「虚血性心疾患」でした。彼の心臓の冠動脈を検査したところ、なんと9ヶ所もの血管に深刻な狭窄(狭くなっている部分)が見つかったのです。医師からは、心臓が本来の3割程度しか機能していないという、いつ心筋梗塞を起こしてもおかしくない極めて危険な状態だと告げられました。
10年ほど前から、飲酒をすると胸が締め付けられる感覚があったといい、それは「救急車レベルの心筋梗塞を何度も起こしている証拠」だと医師に指摘されたそうです。心臓と脳の血管は繋がっています。心臓の状態がこれほど悪ければ、脳の血管も同様にボロボロの状態であったことは容易に想像がつきます。心臓の問題が、結果的に脳梗塞という形で爆発したのです。
4-4. 生死の境をさまよった誤嚥性肺炎との闘い
脳梗塞という最大の危機を乗り越えた琴富士さんに、さらなる試練が襲いかかります。大手術から約半年後の2021年9月、リハビリ病院で療養中に「誤嚥性肺炎」を発症してしまいました。これは、食べ物や唾液、胃液などが誤って気管や肺に入ってしまうことで起こる肺炎です。特に、脳梗塞の後遺症で飲み込みの機能(嚥下機能)が低下した人や、寝たきりの状態が続く人にとっては、繰り返しやすく、命を落とすことも少なくない恐ろしい病気です。
この時も琴富士さんは一時、生死の境をさまよいましたが、持ち前の強靭な生命力でこの危機も乗り越えました。看護師からは、その回復力に驚かれ「強い」と評されたといいます。しかし、この誤嚥性肺炎との闘いは、彼の体力をさらに奪い、その後の療養生活をより困難なものにしたことは間違いありません。
5. 琴富士(小林孝也)とは誰で何者?栄光と挫折に満ちた経歴を徹底解剖

ここで改めて、琴富士・小林孝也さんという一人の力士が、一体どのような人物だったのか、そのプロフィールと栄光、そして挫折に満ちた相撲人生を深く掘り下げて振り返ってみましょう。
5-1. 基本プロフィール(本名・生年月日・出身地など)
まずは、彼の基本的な情報を一覧表で確認します。これらのデータが、彼の人生を読み解く上での基礎となります。
項目 | 内容 |
---|---|
本名 | 小林 孝也(こばやし たかや) |
四股名 | 琴富士 孝也(ことふじ たかや) |
生年月日 | 1964年10月28日 |
没年月日 | 2025年8月8日(享年60) |
出身地 | 千葉県千葉市花見川区 |
身長・体重 | 191cm / 150kg(現役時代) |
所属部屋 | 名門・佐渡ヶ嶽部屋 |
最高位 | 西関脇(1990年7月場所) |
得意技 | 左四つ、寄り、吊り、上手投げ、突っ張り |
生涯戦歴 | 529勝528敗15休(94場所) |
幕内戦歴 | 251勝289敗15休(37場所) |
5-2. 学歴と角界入りの背景、四股名の由来
琴富士さんの最終学歴は、千葉市立幕張中学校卒業です。多くの若者が高校進学を選ぶ中、彼は15歳で大きな決断をします。中学を卒業すると同時に、横綱・琴櫻(後の12代佐渡ヶ嶽親方)や大関・琴風(後の尾車親方)らを輩出した角界の名門・佐渡ヶ嶽部屋の門を叩きました。
1980年3月場所、本名の「小林」で初土俵。すぐに頭角を現し、翌場所からは「琴大杉(ことおおすぎ)」という四股名を名乗ります。これは、実の父親が「大きな杉の木のように、天に向かってまっすぐ大きく育ってほしい」という願いを込めて名付けたものでした。しかし、この四股名は呼び出しが「語尾が下がって呼び上げにくい」という指摘を受け、十両昇進を目前にした1986年3月場所、日本の象徴であり、雄大な富士山にあやかって「琴富士」に改名。この改名が、彼の運気を大きく押し上げることになります。
5-3. 歴史に残る1991年名古屋場所、奇跡の平幕優勝の全貌
琴富士さんの相撲人生における最大のハイライト、それは疑いようもなく1991年7月(名古屋)場所での平幕優勝です。この快挙は、単なる一つの優勝ではなく、時代の転換期を象徴する歴史的な出来事でした。
【時代の背景】 当時の角界は大きな変動期にありました。昭和の大横綱・千代の富士が直前の5月場所で涙の引退。そしてこの7月場所の序盤には、横綱・大乃国も引退を表明します。一つの時代が終わり、若乃花・貴乃花兄弟(後の横綱)を中心とした「若貴ブーム」が社会現象となる直前の、まさに嵐の前の静けさのような時期でした。
【快進撃の軌跡】 そんな中、東前頭13枚目まで番付を落としていた琴富士さんは、誰の予想をも覆す快進撃を見せます。長身を生かしたスケールの大きな四つ相撲と、鋭い突っ張りが冴えわたり、初日から白星を積み重ねていきます。中日を過ぎてもその勢いは止まらず、11日目には横綱・旭富士を破る大金星を獲得。さらに、当時人気と実力を兼ね備えた「花のサンパチ組」の筆頭格であった大関・霧島、そしてハワイ出身の巨漢大関・小錦を次々と撃破。13日目には、兄弟子でありライバルでもあった貴闘力を下した時点で、千秋楽を待たずに見事な平幕優勝を決めました。
【歴史的価値】 この優勝は、1984年9月場所の多賀竜以来、約7年ぶりとなる平幕優勝であり、元号が平成に変わってからは初めての快挙でした。所属する佐渡ヶ嶽部屋にとっても、1983年初場所の大関・琴風以来となる8年半ぶりの幕内最高優勝であり、部屋に大きな活気をもたらしました。さらに、翌9月場所には弟弟子である琴錦も平幕優勝を果たし、「同部屋から2場所連続平幕優勝」という史上初の快記録が生まれる礎ともなったのです。
連勝は14日目に、当時18歳、飛ぶ鳥を落とす勢いだった貴花田(後の横綱・貴乃花)に止められ、全勝優勝は逃したものの、千秋楽は後の第64代横綱となる曙を破り、14勝1敗という圧巻の成績で賜杯を手にしました。この一場所は、琴富士孝也という力士の名を、永遠に相撲史に刻み込んだのです。
5-4. 栄光の後の苦悩、関脇昇進から現役引退まで
人生の頂点を極めた琴富士さんでしたが、その栄光は長くは続きませんでした。平幕優勝の翌場所、1991年9月場所には自己最高位に次ぐ東小結に昇進します。しかし、研究され尽くしたことや、優勝のプレッシャーからか、場所中に右足首を負傷するアクシデントも重なり、4勝11敗と大きく負け越してしまいます。
その後、再び三役の地位に返り咲くことはなく、幕内の上位と中位を行き来する一進一退の相撲が続きました。長身力士の宿命ともいえる腰痛や膝の怪我にも悩まされ、かつてのようなスケールの大きな取り口は影を潜めていきます。1994年11月場所には、ついに十両へ陥落。十両の土俵で奮闘を続けましたが、1995年9月場所、幕下への陥落が濃厚となったところで、ついに土俵に別れを告げることを決意しました。まだ30歳という若さでの現役引退でした。栄光と挫折、その両方を味わい尽くした、15年間の力士人生でした。
6. 琴富士(小林孝也)の引退後の活動、天国と地獄を味わったセカンドキャリア
まわしを置いた後の琴富士さんの人生は、現役時代以上に激しい浮き沈みを経験する、まさにジェットコースターのような道のりでした。その軌跡を、いくつかのフェーズに分けて詳細に追っていきます。
6-1. 【模索期】年寄「粂川」として、そして早々の角界退職
引退直後の1995年9月、琴富士さんは年寄「粂川(くめがわ)」を襲名し、所属していた佐渡ヶ嶽部屋の部屋付き親方として、後進の指導者としての道を歩み始めました。平幕優勝の実績と、明るいキャラクターを持つ彼には、将来の部屋の幹部としての期待もかけられていたことでしょう。
しかし、この年寄株は、彼自身が所有するものではなく、一時的に借りていた「借り株」でした。そのため、株の本来の所有者である兄弟子の琴稲妻が引退し、年寄・粂川を襲名することになった1999年7月、琴富士さんは株を返上せざるを得なくなりました。在籍わずか4年、34歳という若さで、彼は日本相撲協会を退職。第二の人生を、角界の外で探すことになったのです。
6-2. 【転落期】タレント転身、そしてギャンブル依存と極貧生活へ
協会を去った彼は、その知名度とユーモラスなキャラクターを活かしてタレントに転身します。現役時代からテレビのバラエティ番組などで見せていた軽妙なトークで、一時は多くの番組に出演しました。また、元大関・小錦さんの事務所に所属したり、兄弟子である貴闘力が経営する焼肉店の店長を務めたりと、様々な形で活路を見出そうとしました。
しかし、芸能界や飲食業界の厳しさは、土俵の上とはまた違うものでした。現役時代の番付のように、努力が必ずしも明確な結果に結びつかない日々に、彼は次第に焦燥感を募らせていきます。そして、その心の隙間を埋めるかのように、ギャンブル、特に競馬の世界にのめり込んでいきました。それは単なる気晴らしではなく、抜け出すことのできない「ギャンブル依存症」という病でした。
借金は雪だるま式に増え、ついには最初の妻とも離婚。子供とも離れ離れになりました。2019年にテレビ番組で明かされたその生活は壮絶なもので、神戸市内の家賃5万円、広さ6畳のアパートに暮らし、冷蔵庫もなく、1日に50円のインスタントラーメン2袋で食いつなぐという、信じがたいほどの極貧生活にまで転落していたのです。平幕優勝力士の輝かしい栄光は、そこには見る影もありませんでした。
6-3. 【再生期】人生の転機となった「療育」との運命的な出会い
まさに人生のどん底をさまよっていた琴富士さんに、大きな転機が訪れます。きっかけは、2019年2月に放送されたTBS系のドキュメンタリー番組『爆報! THE フライデー』への出演でした。この番組が、彼のその後の人生を大きく変えることになります。
番組の企画で、彼は中学時代の同級生であった女性、後の妻となる篠原弘美さんと再会します。療育セラピストとして働く彼女は、琴富士さんの窮状を知り、発達障害を持つ子供たちを支援する仕事を紹介したのです。実は、弘美さんは中学時代から、琴富士さんに「人の話を最後まで聞けない」「コミュニケーションの取り方が少し独特」といった特性を感じており、発達障害の傾向があるのではないかと考えていたといいます。実際に後に彼が病院で検査を受けたところ、その可能性が示唆されたそうです。
自身の持つ特性を初めて客観的に理解し、同じような困難を抱える子供たちと向き合う療育の仕事は、琴富士さんにとってまさに天職でした。力士時代の経験を活かし、相撲の基本動作を取り入れた独自のレッスンを行うことで、子供たちの心身の成長をサポートする。その中で彼は、お金や名声ではない、新たな生きがいと自己肯定感を取り戻していきました。
6-4. 【挑戦と闘病】新たな挑戦と、しかし訪れた病魔の再来
再起を果たした琴富士さんは、さらに活動の幅を広げ、新たな挑戦を始めます。自身の壮絶な経験や相撲界の裏話を赤裸々に語るYouTubeチャンネル「琴富士チャンネル」を開設し、多くの視聴者から共感と応援を集めました。また、神戸市内では自身の経験を活かしたリラクセーションサロン「もみ相撲 琴富士」を経営するなど、療育の仕事と並行して精力的に活動していました。
ようやく掴んだ穏やかで充実した日常。しかし、運命は彼に平穏な時間を与えてはくれませんでした。2021年、これまで体を蝕んできた病魔が一気に牙をむき、彼は脳梗塞という最大の敵との、最後の闘いに身を投じることになったのです。
7. 琴富士(小林孝也)の結婚と離婚、そして再婚。彼を支えた妻と子供の物語
波瀾万丈の人生を歩んだ琴富士さんを、陰で支えた家族はどのような存在だったのでしょうか。彼の結婚、離婚、そして運命的な再婚について、報道されている情報を基に深く掘り下げます。
7-1. 最初の結婚と離婚、そして離れ離れになった子供の存在
琴富士さんは、過去に一度結婚し、そして離婚を経験しています。この最初の結婚生活の中で、子供も授かっていたことが分かっています。幸せな家庭を築いていた時期もあったことでしょう。
しかし、前述の通り、引退後の彼の生活はギャンブル依存によって荒れ果てていきました。多額の借金を抱え、定職にもつけない日々。そんな生活が続けば、家族関係が破綻するのは避けられなかったのかもしれません。結果的に、彼は妻と離婚し、愛する子供とも離れ離れになってしまいました。この家庭崩壊の経験は、彼の心に深い傷と孤独感を残したことでしょう。
この最初の結婚相手の方や、お子さんの現在の状況(性別、年齢、交流の有無など)については、プライバシーに関わる事柄であるため、詳細な情報は公表されていません。そっとしておくのが、彼らへの最大の配慮と言えます。
7-2. 運命の再会、再婚相手は中学の同級生・篠原弘美さん
人生のどん底で孤独にもがき苦しんでいた琴富士さんに、一筋の光を差し伸べたのが、後の妻となる篠原弘美(しのはら ひろみ)さん(60)でした。驚くべきことに、彼女は琴富士さんの中学時代の同級生。数十年ぶりにテレビ番組の企画で再会した二人は、運命に導かれるようにして再び人生を共に歩むことを決めます。
療育セラピストとして働く弘美さんは、単に仕事を紹介しただけでなく、琴富士さんが抱える発達障害の傾向を理解し、彼の良き理解者となりました。彼女の存在がなければ、琴富士さんが再び前を向いて歩き出すことは、極めて難しかったに違いありません。人生の後半で再び巡り会い、夫婦となった二人の物語は、多くの人々に希望と感動を与えました。
7-3. 最期まで寄り添った妻・弘美さんの献身的な在宅介護
二人の絆が最も試されたのは、2021年に琴富士さんが脳梗塞で倒れてからの約4年半にわたる闘病生活でした。寝たきりとなり、会話もままならなくなった夫を、妻の弘美さんはたった一人で、しかし懸命に支え続けました。
日刊スポーツの取材に対し、弘美さんは「よく頑張ったと思います。本来なら脳梗塞の手術直後に亡くなってもおかしくなかった。看護婦さんからは“強い”と言われました」と、夫が最後まで生きようと闘い抜いた日々を、気丈に振り返っています。
また、「いつも相撲中継を見ていた。相撲にかかわることがうれしかったようです」とも語っており、言葉を失ってもなお、彼の心には常に相撲があったことを明かしています。寝たきりの夫に寄り添い、意思疎通を試み、その尊厳を守り抜き、そして静かに最期の時を看取った弘美さん。彼女の深く、そして揺るぎない愛情こそが、琴富士さんの最後の闘病生活を支える最大の力であったことは、疑う余地もありません。
8. 琴富士(小林孝也)は逮捕されていたのか?偽装結婚事件の全真相
琴富士さんの人生を語る上で、決して避けては通れないのが、2014年に世間を震撼させた逮捕事件です。なぜ彼は法を犯してしまったのか、その背景と真相に迫ります。
8-1. 2014年の偽装結婚事件、元関脇逮捕の衝撃
2014年2月20日、琴富士さんは警視庁組織犯罪対策1課によって逮捕されました。その容疑は「電磁的公正証書原本不実記録・同供用」という、聞き慣れない罪名でした。これを分かりやすく説明すると、韓国籍の女性が日本での在留資格(ビザ)を取得することを目的に、実際には結婚する意思がないにもかかわらず、虚偽の婚姻届を役所に提出して受理させた、いわゆる偽装結婚です。
かつて幕内最高優勝を果たし、関脇にまで登り詰めた国民的なヒーローの逮捕というニュースは、相撲ファンのみならず、社会全体に大きな衝撃を与えました。栄光からの転落を象徴する、あまりにも悲しい事件でした。
8-2. 逮捕から起訴、そして下された有罪判決までの詳細
逮捕後の捜査で、事件の具体的な手口が明らかになっていきました。琴富士さんは、知人を通じて紹介された韓国籍の女性から偽装結婚を持ちかけられ、その報酬として、前年1月から当年2月までの間に、合計で約130万円を受け取っていたとされています。もちろん、二人の間に夫婦としての同居の実態は一切ありませんでした。
逮捕当初、琴富士さんは「本当に恋愛関係にあり、結婚した」と容疑を頑なに否認していたといいます。しかし、その嘘はすぐに綻びを見せます。取り調べの中で、捜査官が20人ほどの女性の顔写真を見せ、「この中であなたの奥さんはどの人ですか」と質問した際、彼は全く別の女性を指差してしまったのです。この痛恨のミスにより、彼はもはや言い逃れができないと観念し、犯行を自白せざるを得ませんでした。
同年3月に起訴され、裁判に臨んだ琴富士さん。そして5月1日、東京地方裁判所は彼に対し、懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の有罪判決を言い渡しました。彼の人生に、「前科」という重い十字架が刻まれた瞬間でした。
8-3. なぜ彼は犯罪に手を染めたのか?背景にある深刻な依存症と孤独
なぜ、輝かしい経歴を持つ元力士が、このような安易とも思える犯罪に手を染めてしまったのでしょうか。その根底には、引退後に彼を蝕んだ、二つの深刻な問題がありました。
一つは、前述した「ギャンブル依存症」です。競馬にのめり込んだ彼は、自分の収入では到底返せないほどの多額の借金を抱えていました。日々の生活費にさえ困窮する中で、知人から「報酬がもらえる」という偽装結婚の話を持ちかけられ、その誘惑に抗うことができなかったのです。これは、単に金に困っていたというだけでなく、正常な判断能力を失わせる依存症という病の恐ろしさを示しています。
もう一つは、「社会からの孤立」です。引退後、思うようにいかないセカンドキャリア、そして家庭の崩壊。栄光を知るがゆえに、誰にも弱音を吐けず、相談できる相手もいない。そんな深い孤独感と絶望感が、彼を誤った道へと追い込んでしまった側面は否定できません。この事件は、引退したアスリートが直面するセカンドキャリアの問題や、社会的なサポートの重要性を、改めて我々に突きつけるものでした。
9. 琴富士(小林孝也)と貴闘力、兄弟子の絆と確執の全貌
琴富士さんの人生を語る上で、同じ佐渡ヶ嶽部屋で苦楽を共にし、相撲界を去った後も深く関わり続けた元関脇・貴闘力さんの存在は、決して切り離すことができません。二人の関係は、単純な先輩後輩では説明できない、極めて複雑なものでした。
9-1. 支援と利用が交錯する、兄弟子・貴闘力との深い縁
貴闘力さんは、琴富士さんにとって、時に救いの手を差し伸べる恩人であり、時に彼を振り回すトラブルメーカーでもありました。タレント活動がうまくいかず路頭に迷っていた琴富士さんを、自身の部屋に住まわせて面倒を見たり、自らが経営する焼肉店の店長として中国・上海に送り出したりと、様々な形で支援しています。その面倒見の良さは、貴闘力さんの魅力の一つでもあります。
しかし、その関係は常に一方的な支援ではありませんでした。特に、上海の焼肉店を巡っては、現地の中国人スタッフとのトラブルが原因で貴闘力さんが事業から手を引くことになり、結果として琴富士さんが言葉も通じない異国の地で「置き去りにされた」と感じるような事態に発展します。この一件は、二人の間に長年にわたる深刻な確執と不信感を生む原因となりました。
9-2. テレビ番組で実現した直接対決と涙の和解
このこじれた二人の関係に、一つの終止符が打たれたのが、2019年3月に放送されたドキュメンタリー番組『爆報! THE フライデー』での直接対決の場面でした。療育の仕事で再出発するにあたり、どうしても過去を清算しておきたいと願った琴富士さんのために、番組が再会の場をセッティングしたのです。
番組で再会した二人は、上海でのトラブルの真相について、それぞれの立場から想いをぶつけ合いました。貴闘力さんは、想定外の費用がかかることになり、やむを得ず事業から手を引いたこと、そして琴富士さんのプライドを傷つけないように日本に呼び戻したかったという、彼なりの事情を説明しました。
その説明を聞いた琴富士さんは、長年の誤解が解け、自身の不義理を悟りました。そして、「不義理したこと、いろいろその他、これだけはきちんと謝らさせてください。どうも親方すみませんでした」と、涙ながらに深々と頭を下げて謝罪したのです。その姿を受け止めた貴闘力さん。この瞬間、二人の間にあった長年のわだかまりは氷解し、複雑な関係は涙の和解という形で一つの結末を迎えました。このシーンは、多くの視聴者の心を打ち、大きな感動を呼びました。
10. 琴富士(小林孝也)と小錦、ライバルから盟友へと変わった関係性
琴富士さんと同時代に土俵を沸かせたスター力士として、ハワイ出身の元大関・小錦(KONISHIKI)さんの存在もまた、非常に大きなものでした。二人の関係は、土俵の上と下で、その姿を大きく変えていきました。
10-1. 土俵の上では好敵手、現役時代のライバルとしての激闘
現役時代、二人はまさに好敵手(ライバル)でした。特に、琴富士さんが奇跡の平幕優勝を果たした1991年7月場所、その優勝への道を決定づける極めて重要な一番となったのが、当時絶大な人気と実力を誇っていた大関・小錦さんからの勝利でした。
191cmの長身痩躯ながら、鋭い踏み込みと多彩な技を持つ琴富士さんと、280kgを超える巨体から繰り出す圧倒的なパワーを誇る小錦さん。その対照的な二人の対戦は、常に見応えがあり、土俵を大いに沸かせました。彼らのような個性豊かな力士たちの存在が、若貴ブームへと繋がる平成初期の大相撲人気を支える原動力となっていたのです。
10-2. 引退後に見せた絆、タレントとしての交流とYouTubeでの共演
土俵を去った後、二人の関係はライバルから、互いをリスペクトし合う盟友へと変わっていきました。琴富士さんは引退後の一時期、小錦さんが設立した芸能事務所「KP」に所属し、タレント活動を行っていました。土俵の外で、先輩として、またビジネスパートナーとして、小錦さんが琴富士さんを支えていた時期があったのです。
近年では、その良好な関係がより明確な形で示されています。琴富士さんが開設したYouTubeチャンネル「琴富士チャンネル」に、小錦さんがゲストとして出演。現役時代の思い出話や、引退後の苦労話などを、笑顔で語り合いました。動画の中の二人は、かつて激しくぶつかり合ったライバルとは思えないほど和やかな雰囲気で、そこには深い友情と絆が感じられました。
現役時代は互いの持てる力のすべてをぶつけ合って闘い、引退後はその健闘を称え合い、友人として交流を続ける。これぞ、スポーツマンシップの美しい姿であり、相撲という世界の奥深さを示していると言えるでしょう。
11. 総括:琴富士・小林孝也が我々に遺したもの
この記事では、2025年8月8日に60年の生涯を閉じた元関脇・琴富士こと小林孝也さんの、栄光と挫折、そして再生と闘病に満ちた波瀾万丈の人生について詳細に解説してきました。
最後に、彼の人生が我々に何を問いかけ、何を遺したのかを総括します。
- 【訃報と死因】 2025年8月8日、60歳で逝去。直接の死因は「脳梗塞」と一部で報じられましたが、公式発表はなく、長年の壮絶な闘病の末であったことが複数の報道から確認されています。
- 【壮絶な闘病】 2021年に重篤な脳梗塞を発症し、減圧開頭術という大手術を経験。会話困難や右半身麻痺という重い後遺症に加え、現役時代からの持病である糖尿病、心臓病、腎臓病など、まさに満身創痍の状態で闘い続けました。
- 【栄光の頂点】 1991年名古屋場所で、前頭13枚目から14勝1敗という圧巻の成績で劇的な平幕優勝。平成初の平幕優勝力士として、その名は永遠に相撲史に刻まれています。
- 【人生の転落】 引退後はギャンブル依存症に陥り、多額の借金を抱え極貧生活に。2014年には偽装結婚事件で逮捕され、有罪判決を受けるという、人生のどん底を経験しました。
- 【不屈の再生】 中学時代の同級生である妻・弘美さんの助けで、発達障害を持つ子供たちを支援する「療育」という仕事に出会い、新たな生きがいを発見。過ちを償い、再び立ち上がろうとしました。
- 【家族の絆】 最初の家庭は崩壊したものの、再婚した妻・弘美さんは、彼の闘病生活を最後まで献身的に支え続けました。その深い愛情は、彼の最後の心の支えでした。
- 【複雑な人間模様】 兄弟子・貴闘力さんとは支援と確執を繰り返しながらも最終的に和解。ライバル・小錦さんとは引退後も盟友として良好な関係を築きました。
琴富士・小林孝也さんの人生は、一言で言えば「光と影」の物語です。平幕優勝というこの上ない光を浴びたかと思えば、逮捕・極貧という深い影に沈む。しかし、彼は決して人生を諦めませんでした。過ちを犯した自分から逃げず、不治の病に屈することなく、最後まで「生きる」ことを模索し続けました。
彼の生涯は、成功の頂点に立った人間が陥りがちな脆さ、セカンドキャリアの難しさ、依存症の恐ろしさといった、現代社会が抱える多くの課題を浮き彫りにします。と同時に、どれほどのどん底に落ちても、人との出会いや新たな目標によって人は再生できるという、力強い希望のメッセージをも我々に示してくれました。
激動の60年の生涯を、まさに全身全霊で駆け抜けた元関脇・琴富士、小林孝也さん。今はただ、その魂が安らかに眠りにつくことを、心よりお祈り申し上げます。
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